瞑想について | 田村洋一 | サンタフェ通信

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瞑想について

初めて瞑想らしきものを体験したのは中学二年生の時の数学の長谷部先生のクラスでした(昭和初期のお生まれだった長谷部先生は何年も前に他界されていたと今年の中学の同窓会で聞いて知りました)。目を瞑れと言われ、息を吐けとか吸えとか、吐く時に嫌な物を全部吐き出せ、吸う時にいい物を吸うつもりで吸えなどと、いろいろと言われながらやりました。悪くはない体験でした。

 

高校生の時に、沖正弘先生の本を読んで沖ヨガを知り、春休みに三島の沖ヨガ道場に級友の岩田愛一郎を伴って滞在したのが最初の本格的な瞑想体験です。瞑想の指導を受けながらやってみるのが珍しくも楽しい体験でした。

 

以来、三十数年間瞑想を続けています。お寺で座禅することもありますが、たいがいは自宅で立ったり座ったり歩いたりして瞑想しています。出張先でも瞑想します。

 

8年ほど前に原宿で初期仏教の瞑想指導者スマナサーラ長老と会い、そこで初めてヴィパッサナー瞑想の指導を受けました。ヴィパッサナーは今でも自分の瞑想の基礎となり、根本となっています。その後に五反田のヨガの先生の成瀬先生から倍音声明を習い、これも欠かせないものになっています。同じ頃に、チベット仏教のバリー先生に瞑想指導を受けたり、目白にお住まいの津田先生にアルタード瞑想を教わったりしたのも非常に大きく、アルタード瞑想はいつでも自分のそばにあり、ほとんど毎日のように実践しています。

 

いわゆる瞑想そのものではありませんが、2002年に宮下直樹さんの野口体操クラスに出会い、そこで毎月二回は野口体操をやるようになったのも自分にとって画期的な出来事です。野口体操は身体で瞑想する体験です。宮下直樹さんは何年か前にティクナットハンと縁ができて、すっかりタイの弟子になってしまいました。それは無論素晴らしく喜ばしいことなのですが、毎月開催してきた野口体操クラスが途絶えてしまいました。フランスから戻ってきてほしいものです。

 

5年くらい前からは呼吸法と瞑想クラスを毎月欠かさず開催しています。少人数のクラスで、長く一緒にやっているメンバーもいます。最近は、瞑想に入る前に気功の運動であるスワイショウやチベット体操を行っています。2時間の呼吸法と瞑想クラスはたった2時間の瞑想なのにたっぷりと、いろいろなことをやれます。これは場の力だと言っていいでしょう。お寺で2時間座禅を組むのもいいけど、たいていの普通の人は眠くなってしまったり、雑念の嵐に見舞われたり、足がしびれたりします。呼吸法と瞑想クラスではそういうことはあまりありません。

 

私たちは瞑想するために瞑想しているというのではなく、瞑想から心身の健全さや活力を見出そうというのが所期の動機で始めています。そのことはたったの数回で体感できることもあります。

 

しかし、瞑想を非日常体験としてときどき実践しているのと、毎日の日常的な体験として定着しているのとでは、意味合いが異なります。

 

瞑想は、始めた時は誰にとっても非日常的であり、一風変わった体験です。ふだんの思考や言動とは違う、ある種の規律です。

 

ところが、瞑想が日常化してくると、仕事や生活の喧騒の中に自ずと瞑想的なモーメントが増えてくるのです。

 

アクションしながらリフレクションできる瞬間が増してきます。

 

そして、人間の不完全さや世界の理不尽さを平然と引き受けるキャパシティが蓄積されてきます。

 

瞑想は究極の幸せのための土台を積み上げていくような実践です。

 

最終解脱はまだまだ遠くても、小さな悟りに見舞われることはときどきあります。大きな悟りよりも前に小さな悟りがたくさん起こります。それは予行演習のようでもあり、それ自体が幸せの体験そのものでもあるのです。

 

瞑想体験によって頭脳が活性化し、心身が健全に向かうことがあるのは事実です。個人差はあるし、人生局面によってニーズも異なりますが、長年実践してきた体験としても言えるし、歴史的証拠からも言えます。

 

それを「マインドフルネスがビジネスを成功に導く」のように矮小化してしまうのはあまりにももったいない。瞑想実践は「ビジネスの成功」のようなちっぽけな世界から人類を解放してくれる偉大な方法だからです。

 

サンタフェ通信10月30日号より一部抜粋しています。


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