私がなぜオブジェクティビズムの「布教」に不熱心なのか | システム思考 | 田村洋一

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私がなぜオブジェクティビズムの「布教」に不熱心なのか

アイン・ランド思想がそんなに素晴らしい哲学であり、エリートやインテリだけでなく全ての考える人がアクセスできる実用的な方法ならば、なぜ私はもっと強くもっと広くオブジェクティビズムの効用を世間に訴えないのでしょうか。

 

ときどきそう問われることがあります。

 

もちろん理由があります。

 

ひとつには私がものぐさで怠け者の性格であるためです。私は利己的ですから、世間の多くの人々の幸福のために自分が無理して自己犠牲を払うことはしません。

 

が、もっと根本的には、人はそれぞれ自分に合った生き方をすればいい、と開き直っているためでもあります。

 

オブジェクティビズムが客観的で合理的な、私に合った哲学だからと言って、全ての人に合った哲学だと言えるでしょうか。

 

これはブディズム(原始仏教)についても全く同じです。

 

ブディズムは生きとし生けるものの幸福を命ずる教えです。世界中の全ての人々が心から生きとし生けるものの幸福を思えば、世界中が平和になる、と思わないでもありません。

 

ブディズムは出家主義ではありますが、在家においても大いなる効用があります。最終解脱しないまでも、生活は充実感と幸福感に溢れ、平穏無事が日常になります。もっと多くの人がブディズムを実践したら、もっと多くの人が幸せに近づけるのに、と思わないでもありません。

 

しかし、ブディズムを強く推奨して他人の信仰や信心の自由にまで踏み込むつもりは、少なくとも私には毛頭ありません。

 

そんなことをすればかえって平和を乱すことになるでしょう。

 

御釈迦様がそうしたと伝えられる通り、「これが私の発見です。よかったらお試しください」と差し出すだけで充分です。

 

オブジェクティビズムについても全く同じことです。

 

私はアイン・ランド哲学との邂逅によって革命的と呼んでもいいほどの頭脳のアップグレードをしました。それは私個人の限られた体験ではなく、多くのオブジェクティビストが公言することです。

 

しかし一方で、オブジェクティビズムが体質的に合わなかったのか拒絶反応があったのか、ヒラリー・クリントンのようにアイン・ランドを「通り過ぎた」だけの人も多い。アイン・ランドやオブジェクティビズムを仇敵のように攻撃し、蛇蝎のように嫌う人も多い。

 

そういう人たちを相手にしても人生の貴重な時間の無駄です。少なくとも怠け者の私のする仕事ではありません。

 

アイン・ランドに触れ、オブジェクティビズムに親しみ、ご利益を体験した人だけが、利己的に利用したらそれで充分なのです。そのほうが合理的で利己的な社会や人間のあり方として合っているのです。

 

そのほうが自由だと思いませんか。

 

(続く)

 

サンタフェ通信3月11日より一部抜粋しています。


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