母 | 田村洋一

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小学校2年生くらいのとき「おかあさん」を題に作文を書けと言われて、一行も書けず、放課後まで残されたことをよく思い出します。担任の山本先生と一緒に遅い時間までいくら机に向かっていても何ひとつ書けませんでした。

 

控えめで穏やかな雰囲気なのに驚くほど意志が強い人でした。今回の闘病生活においては、一切の延命治療を拒絶し、あくまでも最後まで自然な形で行くと言って自分の意思を貫き通しました。

 

昭和20年3月の東京大空襲の時に尋常小学校の一年生だった母は新宿に住んでいて、大空襲で家をなくし、山形に疎開したのです。爆撃される直前に家を飛び出し、母親に手を引かれて爆弾から逃げて走ったと聞きます。焼夷弾が落ちてくると母親(私の祖母)は大きな声を上げ、しゃがみこんで怖がっていたが、自分はちっとも怖くなかったと言っていました。

 

私の頑固や度胸は母親譲りだったのかもしれません。

 

よく他人の話を聞く人でした。子供の話でも大人の話でも、何でもいつでも聞き役に回っていました。聞き上手だったようです。「私は自分から話すようなことが何もない。ただ聞くだけ」とよく言っていました。

 

なぜだかユーモラスな人でした。巧まざるおかしさというべきか。何とも言えないおかしさのある人でした。闘病生活に入って、介護士やヘルパーが訪問してくるようになると、彼女たちが「田村さんのところに来るのは楽しい」と言う、と言っていました。きっと本当にそうだったのだと思います。自然と楽しい雰囲気になるのでした。何も面白いことなどしていないのに。

 

そしてなぜだか勝負強い人でした。子供とカルタ取りやトランプ遊びをしていても手を抜かない。わざと子供に譲って負けるというようなことがない人でした。真剣勝負とかゲームを楽しむ人でした。じゃんけんでもけん玉でも、どんな遊びでも集中して真面目にやるのです。

 

おかしなものです。こんなたわいないことだったらいくらでも作文に書けるのに、どうして何も書けなかったのでしょう。きっと何か劇的なことを書かないと作文にならないという思い込みがあったのだと思います。そう、母には劇的な才能とか逸話などがないのに、なぜか自然と人が引き寄せられて、いい友人が何人もいたようでした。派手なところが何もない。でも周囲の人たちをなんとなく愉しくさせている。何もしていないのに。

 

2016年5月28日午後4時30分、阿佐ヶ谷の河北総合病院で、母、昭子は永眠しました。享年78歳。

 

我が家の長男(22)が、最近毎週のように昭子おばあちゃんが夢に出てきた、と言う。夢では元気になっていた、それで、ああ、病気が治ったんだ、と思っていたら、目が覚めて夢だとわかってがっかりした、そういう夢を何度も見た、と言います。「そうか、おとうさんの夢には出てこなかったな」と言うと、「おとうさんはしょっちゅう会いに行ってたからね。俺はこないだ久しぶりに会って、それから会ってなかったから、おばあちゃんが会いに来たんだなって」と言います。

 

うちの長男も優しい奴だなと思いました。

 

 

サンタフェ通信6月3日より一部抜粋しています。


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