ディベートは現実世界の役に立つのか | システム思考 | 田村洋一

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ディベートは現実世界の役に立つのか

質問:
ディベートではロジックと事実だけで判定を下すと言います。しかし現実の世界はロジック以外で動いているのではないでしょうか。

 

回答:
たしかに現実の世界では論理的とは言えない意思決定が横行しています。私たちの日常生活でも、国際政治の舞台においても、必ずしも事実に立脚しない決定がされることが少なくありません。

 

それに対して、ディベートの試合では論理と事実のみに基づいて判定が下されます。できるだけ客観的で公正な判定を下すべく、試合を審査するジャッジは自分の主観を交えず、試合において提示された証拠と論点だけに注目して判定します。

 

競技としてのディベートは、現実世界の人間関係や社会的地位や性別や人種や年齢や職業や政治や財力や暴力などの一切の夾雑物を棚上げし、純粋に事実だけを見ようとします。その約束によって競技が成り立っています。

 

競技としてのディベートは、参加する人たちが日頃の社会的制約を離れて自由に発想し、自由に議論することを可能にしています。それによって頭脳を活性化し、日常の思い込みや偏見を離れ、頭を自由にすることができるのです。

 

では競技ディベートは、現実世界の複雑さを無視した純粋にアカデミックな「遊び」なのでしょうか。現実世界の意思決定には役に立たない代物なのでしょうか。いくらディベート競技で頭を鍛えても、現実の意思決定が力関係で決まるなら、ディベート的な思考は無力なのでしょうか。

 

もちろんそんなことはありません。正反対です。だからこそディベート思考が必要なのです。

 

まず、ディベートが鍛錬するのは型にはまらない思考だということがポイントです。ディベートは「こうすればああなる」という単純な規則のゲームではありません。複雑な現実課題を紐解いて意思決定するための頭の使い方を学ぶのです。

 

ですから、仮に現実世界で論理的な話し合いにならなかったとしても「本来どうあるべきなのか」を考える頭を持つことは決して無駄ではありません。

 

また、社会での意思決定が事実やロジック以外の方法で行われるとしても、正しい論、正論の大切さは損なわれることがありません。

 

正論がしばしば嫌われるのは、それが「きれいごと」だからです。いくら正しい主張を述べても実際に採用されなければただのきれいごとだというのです。

 

しかし、それは話が逆です。きれいごとでしかない正論は、正しいから駄目なのではなく、正しさの断片しかないから駄目なのです。いわば正しさが足りないのです。正しすぎるのではなく、一面の真理にすぎないのです。

 

国際政治を例にとれば、表舞台の政治家の合意は、裏側の駆け引きや勢力争いによって実質的に形成されていることは周知の事実です。しかし表向きのロジックが成り立っていなければ、政治は容赦のない批判にさらされます。オフィシャルな合意のロジックが成り立った上で裏の交渉が功を奏すのです。

 

建前と本音が使い分けられるのは何も日本社会だけの特徴ではありません。いくらディベートによって事実をあからさまに議論したところで表に出てこない本音は残るでしょう。しかし、だからと言って建前が無意味なわけではありません。それどころか、しっかりした建前があってこそ、単なる机上の議論を超えた交渉や合意形成も可能になるのです。

 

教育ディベートは、試合という形式によって現実の重要なある断面をくくりだし、現実社会における思考や合意形成のトレーニングをしているのです。

 

 

サンタフェ通信8月26日より一部抜粋しています。


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