ディベート思考において「正解のコモディティ化」は起こらない | ディベート | 田村洋一

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ディベート思考において「正解のコモディティ化」は起こらない

9月3日のよく晴れた日に北鎌倉で開かれた無料講演会に足を運びました。講師はコーン・フェリー・ヘイグループの山口周さん。非常に興味深い講演会でしたが、山口さんの近著の中で印象的だった議論のひとつに

 

「正解のコモディティ化」

 

というのがあります。論理的な分析思考を突き詰めていくと誰もが決まった「正解」に行き着いてしまい、誰もが同じようなプロダクトをつくって同じようなマーケティングをして差別化ができなくなってしまう(だから論理ではなく感性や直観が大切だ)という論旨です。

 

なるほど、と唸りつつ、釈然としない思いが残りました。

 

競技ディベートは論理思考の権化のような活動です。どこまでもとことん事実と論理、ファクトとロジックで真実を突き詰めていきます。そうすると「正解のコモディティ化」が起きるでしょうか。誰もが同じ回答に行き着くでしょうか。

 

答えは否。断じて否です。

 

政策ディベートのテーマは複雑で、ディベートすればディベートするほどディベータブル(debatable)になっていきます。

 

たしかにある種の議論は収斂に向かいます。例えば学校教育の歴史や現状についてのいくつかの事実は論ずるまでもなく白黒がつきます。しかし学校の未来や教育の勝ち、公共政策をどう変えるべきか変えざるべきかについては収斂どころか議論は拡大していきます。ここでもある種の議論にはある程度の決着がついていき、「これは勝てる」「これは勝てない」という見込みが生まれるのですが、それとて最終回答にはならず、正解のコモディティ化は起こりません。

 

数百試合を数か月に渡って闘った結果として「今季はこのケースが強かったね」「肯定側は厳しかったな」などの感想がコミュニティで共有されますが、誰がやってもこの答になるというようなコモディティ化に至ることはありません。

 

これはどういうことなのでしょうか。

 

いつくかの可能性が考えられます。ここで思いつくまま検討してみましょう。

 

まず、正解のコモディティ化という概念はきわめて限定的なもので、少なくともディベートで扱うような複雑系には当てはまらないのではないでしょうか。

 

正解のコモディティ化は非複雑系(閉鎖系・秩序系)にはよく当てはまります。学校で算数を勉強するなら誰がやっても1+1=2であり、正解は単一でありふれたものになります。一方、ディベートで扱う論題にはもともと答が与えられておらず、どこまでも見つかりにくい複雑なシステムを対象にしています。

 

もうひとつの可能性は、ディベートにおいてはまさにアーティストがアート作品を創作するような美意識が発動しているという点です。公共政策をどうしていくかをロジックとファクトで突きつめていっても「こうしていきたい」という意志の表明や価値の創造は、サイエンスよりもアートの領域なのか、ということです。

 

ディベートはただ単に調査分析しているのではなく、自分自身が創り出したい未来を創発しているのです。ひとりでcreateするのみならず、対抗チームのディベーターや同じチームのパートナーとco-createし、emergeさせています。実際、ディベートの試合を重ねていくうちにわからなかったことが次第に姿を現してきて(emergence)、いくら調べても考えても未知だったことが忽然と正体を見せる瞬間があります。「あぁ、そういうことか!」というひと時です。

 

思えばビジネスでも同じことがあります。事前の下調べや分析やシミュレーションではわからなかったことが、実際にやっていくうちに「そういうことか!」と見えてきます。

 

さて、ここで問題は、一体何が創発を可能にするのか、です。

 

山口さんの無料講演のタイトルはたしか「アートとサイエンスのリバランス」ということでした。これを素朴に受けとめると、アートを増やせ、サイエンスを減らせというメッセージになります。昨今のビジネスはサイエンス偏重だからアートの復権を、論理よりも感性と直観を大事にしろ、というわけです。皆が好きで(誤って)引用するブルース・リーの「考えるな。感じろ」(Don’t think. Feeeeeel! )という路線です。

 

山口さんの無料講演が終わった時に手を挙げて「サイエンスを減らせというわけではないですよね」と聞いたら山口さんは「サイエンスを減らしたら駄目です。二律背反ではない。読み手のリテラシーには責任は持てない。」と言っていました。

 

ではどうしたらいいのでしょうか。

 

自分の仮説ではこうです。

 

正解をコモディティ化しているかに見える凡庸なビジネス経営者たちに必要なのは論理的思考を減らしてひらめきを増やすことではなく、もっともっと論理的思考を徹底することによってひらめきを創発することです。

 

必要なのはサイエンスをいい加減やめにしてアートを重んじるのではなく、サイエンスをもっともっと重んじる中でアートを磨いていくことです。

 

自分が戦略コンサルティングをしているとき、いくら調べても考えてもアイデアが出ないフェーズがあります。それでも調べ、それでも考え続け、考えあぐね調べ疲れてしまい、散歩したりしているときに唐突に着想に恵まれることがあります。

 

これは戦略コンサルティングに固有の現象ではありません。物を考えて何かを作り出す活動をしている人なら誰でも体験することでしょう。有名な広告マンの書いた「アイデアのつくりかた」(ジェームス W.ヤング 著)にも似たようなことが明記されていたし、アイン・ランドも論理と直観の関係について同じことを説明していました。

 

ただ、戦略コンサルティングや競技ディベートの活動においてはこれが日常茶飯なのです。考えて、調べて、考えて、調べて、とことん自調自考した挙句の果てにひょっこり未知が姿を現わす、それが創発のプロセスです。

 

じゃあ「考えて調べて・・・」の論理思考は無意味で無駄なのでしょうか。最初から散歩していればよかったのでしょうか。サイエンスではなく直観と感性のアートに向かうべきなのでしょうか。

 

そうではありません。深く論理的に考え、サイエンスを徹底することを通じてアートが冴えるのです。優れたアーティストは例外なくロジカルで、例外なく事実を直視します。思考を減らしてはいけないのです。「下手の考え」をやめて、上手の思考に変える必要があるのです。

 

言い方を変えて言うなら、もっとディベート思考がビジネスに必要なのです。もっと複眼的に、もっと多面的に、もっと広く、もっと深く、もっと速く、もっとはっきりと考える作業が必要なのです。論理的思考の実践の中にこそアート的感性の発動があるのです。

 

 

サンタフェ通信9月15日より


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